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そよぐ風になぶられてのこと、さわさわと音を立てるには まだ幼さすぎる梢の緑を眼下に見下ろして。結構な高さのスレート屋根の頂上、細い細い尾根の上へ、怖じけもせぬまま すっくと立っている存在がある。しっとりした重みのあること思わせる、背中の中ほどまであろうかという長い黒髪の裾を、スミレ色の青空を背景に時折ゆらゆらとたなびかせ、何かしらの気配を眺めていた彼であったが、
《 …ようやく気づいたか。》
《 ………。》
存在感は重々あるのに、気配の薄いままに背後へと現れた同輩へ、声だけ掛けての姿勢はそのままな、こちらの御仁は 兵庫といって、
《 まあ、このようなものは滅多に発動せぬはずだからの。》
しかも自分への封印もあったろうから、昼間のお主では気づけという方が無理な相談だっただろうと。その辺りへの理解もあるらしい物言いをした彼が話しかけている相手こそ。この洋館に住まう島田さんチの家人の一人、小さくて無邪気なメインクーンの仔猫…という姿に身をやつしている、久蔵という名の精霊、いやさ、邪妖狩りだったりし。幼い姿でいるときの、金髪に赤い眸、光に透けそうなほどの白い肌なのはそのままながら。駆け出す所作さえ覚束なかったほどの、あのちんまりとした幼さはすっかりと影を潜めての、ちょうど七郎次とさして変わらぬほどの青年の姿を呈しており。すんなりとした四肢は若木のように伸びやかで、頬や鼻梁の線がやや伸びた細おもては、柳葉のように切れ長な目許も涼やかに、玲瓏端麗、神秘的でもあるほどの整いよう。姿だけが変わったのみならず、ちょこまかと駆け回っては、無邪気な笑みをいつもいつも振り撒いていた、見る者とろかす あの屈託のなさも今はなく。うららかに降りそそぐ春先の陽光さえも冷まさせるよな、凍ったような無表情のままなれど。
《 …何の。》
《 気配かって? そうさな、怨念の一種ってところかな。》
短い言いようでも意を察してやれる同輩殿。日頃は少し離れたお屋敷町を基点としている彼が、昼間の内にわざわざ、しかも元の姿へ戻って現れたからには、彼もまた…久蔵が手を下すべきことながら、昼間という時間帯だということもあり、放ってはおけないと感じたからだろて。
《 怨念?》
久蔵が怪訝そうに眉を顰めたのは、例えばこの屋敷がそうまで古いものではないことくらいは知っているからで。住居に憑いていたものなれば、これまでにまず自分が気づいた筈と感じたのだろう。そんな気配のそよぎを感じ、
《 ああ。此処へと憑いてる怨念じゃあない。》
此処に住まうあの二人にしたって。もう結構な年数の人生を歩んで来もした身ではあろうから、その端々には喧嘩もしたろうし、言い争いになってしまったような相手だって、それこそ何人もいるやも知れないものの。死んでもいいとまでの深い恨みを買うような、呪いをかけられるような人性ではないのにと。ますますのこと怪訝そうに眉を顰める久蔵へ、
《 それはどうだろか。》
けろりと、否定の言を返した兵庫殿。え?と、それこそこの彼には珍しいほどはっきりと、意外そうに眸を見張った久蔵だったが、
《 人間たちにはよくある話じゃあないか。》
風向きが変わり、顔の側へと流れてきた髪、指で梳き上げての払いつつ。兵庫殿が言いたかったは、彼らじゃあない他の人間への“思い当たり”であるらしく。
《 思い込みの激しい輩の執念が、
妖異を招くほどの邪念へ育ったの、先だって浄化しもしたろうに。》
自分のこの想いの方が正しくて、これを理解出来ない奴が悪いのだとか。もっと単純に、他人の幸せが恨めしい、自分は陽の目も見ないままこんなに虐げられているのに、何でそんなに変わらないあいつはいい想いをしているんだ、とか。そんな風に歪んでしまった人間の感情や思念は、時として途轍もない邪妖を招いたり育てたりもするもので。
《 そこへ加えて、こちらの物書き先生は、
読み物の中で妖異や民間信仰をあれこれ扱ってもおろう。》
《 …。(頷)》
島田勘兵衛は、その作品の中で“幻想もの”と銘打っての邪妖退治の活劇やらを書くことが多く、
《 怪しい話を書いておるくせに、さして信心深いわけでもなし。》
まあ、それを恐れ知らずだとか何とかと、非難する気はさらさらないがと、そこは兵庫にも判っているらしく。学問、知識として詳しいだけで、信仰云々には極力触れず、俗説としての特徴のみを取り上げて、物語の背景や核にしている程度。きちんと取材をした上で、決して間違った書きようをしちゃあいないが、
《 信心ってもんはそれこそ人によって深さも方向も様々だしの。》
ずんと偏っていたり歪んでいたりすると、ちょっとでも貶めるような表現をする者は、呪い殺しても飽き足らぬ敵だと見なされかねない…と。物騒な言いようを喩えとして口にしてから、
《 人に徒なす存在のように書かれていた妖異への、熱烈な信奉者がいたらしくての。》
崇拝を越えた狂信レベルに凝り固まってたどっかの輩が、本人の後ろ向きで僻(ひが)みっぽい素養からも力得て、素人ながらも妙にコツを得た呪いようをしていたらしいと。大体の概要を既に浚っておいたらしい兵庫殿。さほど逞しい方でもない肩を覆う、厚錦の衣紋の懐ろから。行儀のよさそうな優美さたたえた白い指先に摘まんで、彼が取り出して見せたのは、何の鳥のだか、全寸五寸ちょっともあろかという、長いめの風切り羽根が一本。白地にそういう模様かと思ったほどのちょっとだけ、羽先に爪の先ほどのちょんと、濃朱が一線滲んでおり、
《 此処の裏庭の、稲荷の祠にあった。》
《 祠?》
羽根よりそっちへ小首を傾げる久蔵で、場合が場合だけに真剣本気で“知らなかった”彼なのらしく。妙な間合いで不意を突かれて、こちらもまた、その肩をかくりと落としかけた兵庫殿だが、
《 …まあいい。》
彼のこういう、意外な所がぼこぉっと抜け落ちているのは、今に始まったこっちゃあなしと思い直すと、その羽根をふわんと宙へ投げる。彼らが身をおく屋根の上には、一般人がひょいと見上げたくらいでは、そんな存在があることに気づけぬようにという“結界”が張られてもおり、その結界にくるみ込まれた空間を満たす、特別な精気に触れたその羽根は、兵庫の手から完全に離れたその端から、見る見る内にも泡立つように容積を増し、
『………っ!』
階下で眠る七郎次が、それへといかにも連動してのことか、くっとその眉をきつく寄せもしたけれど。
―― 斬っ
途轍もない旋風一閃。二人の邪妖狩りがそれぞれにまとう、決して軽くはない防御性を誇る厚錦の衣紋、ばさりとひるがえさせたほどの鋭い突風が吹き抜けて。そのしなやかな腕を、頭上から斜め下への袈裟がけに振るったらしき久蔵であり。いつぞやに兵庫が出してやった赤い外套まとった腕の先、白い手には細身の大太刀。濡れたような蒼銀の光をまとわせて、もはや用は済んでの静止状態にあり。その刃が描いたそれだろう、一瞬の動線に裂かれた存在、宙にひらんと舞い上がり、異様な咒の発動を思わせてのこと、ヴワッと容積増しかけた何かしらの方はといえば。膨らみかかった泡たちがたちまち堅く凝縮し、ぱんっと弾けて粉々に、砕けたそのまま消し飛ぶばかり。
《 呪いというのは、成就しなけりゃ本人へと還るというが。》
こうまでの威力を発揮しようとは思いも拠らずの仕儀だったなら、どれほどの苦痛を戻されるのやら。当人は腹いせの八つ当たり程度というつもりだったのならば、正体不明の激痛に襲われるのだから、ちと気の毒かもと言いたげな口調で呟いた兵庫殿だったが。そんな彼へと、
《 ……。》
それがどうしたと言わんばかりの、鋭い眼差し向けて来た久蔵だったのは。素人のくせにややこしいこと引き起こし、自分の手を煩わせた奴なんてと思った現れか。それとも、
“そうまでも、ここの家人を大事に思うておるということだろうかね。”
身辺至近で騒がしくはあれ、自分へと降りかかった難儀ではなし、以前の彼なら放っておいただろう種の奇禍だろにと。長い長い付き合いの中でもお初の反応、何も人臭くなる必要なんてものはないのだけれど、ついつい微笑ましいことよとの苦笑が、口許へと零れる兵庫殿だったりするのであった。
◇◇◇
「ご迷惑をおかけしましたね。」
不意に倒れたそれと同様、ああまで昏々と眠っていたものが、そりゃあすんなりと目を覚ましたらしく。何でこんな昼間っから寝かされているのかしらとでも言いたげに、あのぉ…とリビングへまでやって来た彼だったので。おいおい病人が何をしておるかと、勘兵衛に問答無用で抱えられての強制送還、寝室へ逆送致された七郎次であり。待機しておいでだった医師殿が、手際よく再診に取り掛かったものの、先の診察でもこれといった患部なり異状なりがあったわけじゃあなし、
『何ともないのかね?』
『はい。』
そういえば、いきなり胸が痛みだして、そこから先を覚えてないくらい、意識がなくなるほどの激痛だったらしいのですが、
『今は、あのその、
どこがどう痛かったのかさえ思い出せないくらいなんですよ。』
全くの全然、胸も頭もどっこも、痛くも苦しくもない身ですがと、彼の側から“どうしましょうか?”と訊きたいような顔をされ、
『心筋梗塞ってのは年齢に関係ないからの。』
微細動とかいう発作は、運動部の猛者へも小学生へも襲いかかりますからねぇ。専門家であるお医者様からの、そんな物騒なお言いようへは、さすがに主従の二人して“えっ?”と表情を凍らせたものの、
『ま、今日は安静にしていなさい。』
それと…大事を取っての検査をしておこうか、明日にでも病院のほうへ来るといい…と続けられ、
『え?』
『え?ではない。』
そういえばお主、勘兵衛の定期検診は欠かさせぬくせして、自分はこの何年か、サボり倒しておったろがと。やはりおさすがのご指摘が飛んで来て、
『明日、ウチの病院の各部署へ検査の予約を入れておくからの。今日の晩飯から抜いて、朝一番に来るように。』
『……は〜い。』
現に倒れてしまった身。ご迷惑とご心配を掛けたのは事実なので、こればっかりは逆らいようのない話だなと、七郎次も観念したらしく。
『それでは明日。』
よしか、ちゃんと安静にして過ごすのだぞと念を押したお医者のせんせいが楽しそうにお帰りになられて…幾刻か。
「申し訳ありません。」
蚊の鳴くようなとは正にこのこと。静かな室内であったればこそ、やっと届いたようなほど、小さな小さなお声での、そんな言いようをした七郎次であり。
「何がだ?」
「いえあの、今日は一日、家事をこなせないようなので。」
役立たずもいいところだと思うのか、しょんぼりと項垂れてしまっている七郎次だが。
「馬鹿もの。」
傷心気味の愛しいお人を、いたわるどころか、呆れ半分、怒っているかのような声がして。ああやっぱり怒っておいでか、家事がどうのというよりも、心配かけたのだから仕方がないなと。七郎次が思わずのこと、夜具の中でその身をすくめておれば、
「満足にこなせぬ身で 家事などと馬鹿にする訳ではないけれど、
そんなものよりお主のほうが大事に決まっておろうが。」
「あ…。///////」
今更こんな当たり前なことを言わせるではないと、そういう意味合いでの腹立たしげにしている勘兵衛であるようで。
「よいな。今日は一日大人しく寝ておれ。」
久蔵の遊び相手や食事の支度も、儂が引き受けるから…と大威張りで言う御主様へ。いやあの子よりあなた様へのお世話のほうが、大人な分だけ手間は要るのですけれど…なんていう減らず口も思い浮かばぬまま、
「はい。」
素直に頷くしかなかった秘書殿であり。そんなお二人の会話の末まで、いい子で待っていたものか。
「みぁんvv」
「あ…。」
「お、久蔵。」
どこへ行っておったかと、七郎次はともかく、勘兵衛の側は…今の今まで忘れていたこと棚に上げ。先程同様、足元に取りつき、今度はいつものように登って来かかるの、勘兵衛の骨太で大きな手が捕まえると、早く早くと急いてたのを感じ取ってのこと、まずはとベッドの上にいるお人のお顔を見せてやる。
「ほ〜れ、七郎次は元気になったぞ。」
「にぁんvv」
ほわりと安堵の笑み零した小さな坊や。小さなお手々が伸びたのを、心配させましたねとの感慨も深いまま、七郎次の側でも受け取ろうと仕掛かったのだが、
「今日は遊べないからの。」
「にあ?」
「いい子だから、リビングへ行こうな。」
小さな仔猫の坊やへと話しかけつつ、お主も“いい子”でいろということか、視線を向けて来、そのまま目許たわませ微笑った勘兵衛で。
「〜〜〜〜。///////」
こたびのこれは、そんな御主への“惚れてまうやろ”だったらしい七郎次。照れ隠しにと上掛けを引っ張り上げ、お顔を隠してしまったの、しっかり酌み取ったらしいその上で、はははと快活に笑ってしまわれて。それから、小さな仔猫を抱いたまま、寝室を出て行き掛けた壮年殿だったが、
その足取りがふと止まり、
「ところで、七郎次。吸いのみはどこに仕舞ってあるのかな?」
「あ…えっと、確か。」
……お後がよろしいようで。
〜どさくさ・どっとはらい〜 09.04.16.
*仕上がってみれば前後篇に分割することもなかったですかね。
実はこっちこそが、
シチさんと勘兵衛様をくっつけるのに使おうと思ってたネタだったのですが、
邪悪な気配に橋渡し(?)してもらうのって、縁起が悪くはないかなと思っての、
没にしちゃっておりました。
それにしても大人Ver.の彼らを書くのは久々ですよね。
兵庫さんはともかく、久蔵さんの方は、
もうすっかりとお子様Ver.の方こそが素になりつつありますもの。
これって、シニタイノカの刑でしょうか?(ううう…)
*そうそう、
藍羽様がご自身のサイトの方で、書いてくださってた仔猫のお話、
仕上がっておられましたvv
とてもとっても可愛いお話ですvv
あまりの可愛さにとても励まされました。ありがとうございますvv
先日のウチでのコラボなお話が全然OKだった方は、
どうかお運びくださいませですvv
藍羽様のサイトはこちらですvv → ■
めるふぉvv 

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